vol.7 最近の家族観とは?
最近、気になっていることがある。
それは「家族観」。
最初に私がイメージしている家族感はというと、「家族旅行」「家族で定期的な外食」「家族全員そろっての余暇活動」「家族で帰省」といった「家族」を一つの集合体として行動を共にすることがベースである。
しかし、日常ある風景は「一つの部屋でそれぞれがスマホゲーム、動画鑑賞」をしている。家族が互いの顔を見て話をするというのは、「晩ごはん」か「家族で余暇活動」をしているときぐらいだろうか。
果たして、この状況は「家族」といえるのだろうかと疑問に思うことが多々ある。
「家族とは何なのか」「家族での適切な距離感、コミュニケーションとはどの程度なのか」「家族でいることの意味、メリットとは何なのか」
要因の一つとして、携帯電話やインターネットの普及によるものが大きいと感じる。これにより、家族の間での情報収集手段の多様化・多種化・多量化となる反面、家族でのコミュニケーションや集合体としての意義が希薄化してきているように感じる。これまでは、家族での情報収集の基盤は「両親」であり、そこを発信源とした情報共有(コミュニケーション)を図り、家族としての信頼を深めてきた。
しかし、今は3歳の子どもまでもYoutubeの虜になっており、興味の有無に関係なく自動で再生される動画をただただ閲覧し、良いも悪いも情報収集をしている。まさにワンタッチで動作する「全自動情報収集器」に操られているかのようだ。
特に子どもの情報収集のスピード感や適応力には驚かされることがある。私が同年齢であった時には知りえなかったこともすでに知っていたりする。情報源を尋ねると友人をはじめ、Youtubeを中心とする動画サイトから得ているようだ。
さて、少し話は戻るが、上記に述べた私がイメージしている家族感はもはや「かつて」であり、現代社会では心地よいの関係性や距離感を保つことができる「シェアハウス型」の集合体なのかもしれない。
では、そこに意義はあるのか。メリットはあるのか。少なくとも子どもに関しては、法律的にも18歳までは経済的な自立が難しいため、親としても役割もあるように感じる。
しかし、夫婦間ではどうだろうか。
よく言われるのが、女性(妻)は「出産するとママ」になる。我が家も典型的に当てはまっている。二人の時間や休日のデートを楽しんでいたが、もはやそれは「かつて」のこと。二人の時間よりも「自分時間」が重要のようである。ママでもなく、妻でもない。それでは、夫婦である必要はあるのだろうか。
最近、読んだ本「結婚しても一人 下重暁子」にあるように「しょせん、夫婦は他人であり、大事なことは求めない、期待しないこと」が円満の秘訣だと。
確かに、頷けるものがあった。相手に期待すればするほど、返ってこないのでイライラする。(それはお互い様)もとは別家庭で育った赤の他人同士が一緒になり、理想のルール(家族感)を築いていくことに無理があるのかもしれない。
そう考えると、現代社会問題である「結婚率の低下」「少子化」「熟年離婚の増加」
という社会構造が生まれることも自然の流れだと思った。
国は問題を解決するために、高校までの授業料免除化、多子世帯への給付金増額などをうたうが国民はそれには響かないのも当然である。
そこには根底とした「家族感のメリット」を感じないからではないだろうか。
問題を解決するためには「家族でいてよかった、家族ではないと意味がなかった」と感じられるものがない限り、若者が結婚や出産を前向きに考えることはないだろう。
現代社会が求める「家族観」とはなにか。(そもそも何も求めていないのか)
私もこれからの「家族観」をどう築いていけるのか不安になったので綴る。
vol.6 5つのB!
医療や科学技術の進歩により、これからは「人生100年の時代」
と言われているが、私はそこまで長生きするつもりはない。
生き抜いたとして、88歳までと思っている。
というのは、88のゴロが「はは」(笑)だからだ。
最期は泣くよりも笑って死にたいものだ。
そのために必要なことは、悔いのない人生だったと思えることだと思う。
死ぬ原因が老衰なのか、病気なのか、事故なのか、はたまた誰かに
殺されるのか、わからない。ということは、「いつでも死んでもよい」
体制を整えておくことだと。
やりたいことやしたいことは早く着手したい。通勤時間やお風呂に
入っているときなどにふと湧いてくる「やりたいこと」「いいアイデア」
は忘れないうちにすぐにお気に入りの手帳に「メモ」している。
携帯やタブレット内に入力ではなく、「手書きメモ」であることが
ポイントである。手書きだと上書きしたり、スペースをうまく活用して吹き出し
でメモを追記することもできる。また、いつでも開いて見返し、
ニヤニヤすることができる(笑)
これも本で読んだことがあるのだが、いいアイデアが湧いてくる5つの
シチュエーションがある。(一番最後のBは私が体験から追記)
B us (移動中)
B ath (入浴中)
B ar (飲み屋、カフェ)
B ed (就寝中)
B reath (息:有酸素運動中ーランニング中)
この5つのシチュエーションに共通する事項とは「脳がリラックスしている」
ときである。
机の上で煮詰まったときには、いったん場面を変える方がよい。
ぜひ、お試しあれ!
vol.5 親としての役割とは
親業(子育て)を始めてから早8年。
つくづく「子育てに正解はない」と感じる。
自分の子どもには「こう育ってほしい」、逆に「こう育ってほしくない」
と想うことはたくさんある。それを場面、場面で子どもに伝えているつもり
であるが、いつも言い合いになったり、後味が悪く尻切れトンボになってし
まう。。。。
本当に伝えたいことは「これ」だったのに・・・・と後悔する場面が多々ある。
しかし、時にその後悔という名のバネの縮みは勢いよく跳ね返りを見せることがある。伝えたかったことはしっかり伝わっていたんだと。
子どもなりに雰囲気を感じ取って、咀嚼をして理解しているようだ。
そんな時、「親業をやっていてよかった」と思う。
あるシンポジウムに参加したときに「親の役割とは何か?」と問われたことがあった。講師は「子どもの選択肢を狭めないこと」であると。
確かにそうだ。親の都合や思考で「子どもの将来」を決めつけてしまっていないか。
収入、(親の)夢、趣味、ルール、子育て感、「べき」論。
もちろん、ベースとして、何かを想うことは大切であるが、それを子どもに押し付けたり、やってもいないのに決めつけたりしていないだろうか。
「無」としてこの世に生まれてきた命にはあらゆる可能性と夢で満ち溢れている。なのに親だからといって、子どもの自由な選択肢を絞ってしまっていないだろうか。
私が想う親の役割とは、
・子どもの選択肢をはじめから狭めないこと
・子どもの「やりたい」「挑戦したい」を引き出すこと
・成功よりも、失敗を体験させ、そこからの学びを得るサポートをすること
・親は完璧なものではなく、ひとりの人間として失敗し、涙を流し、落ち込む。
でも、なんだかいつも笑顔で這い上がってくる背中を見せること
・親自身が、いつまでも「何かに挑戦、夢中になれるもの」を持っていること
・罪を犯さないように止めること
これらの気持ちを言葉や態度で全力で伝えることだと思う。
そうやって、親業を通して、実は「親育ち」もしているのだと。
vol.4 よっ!お久しぶり!
新しい仕事に就いて早くも丸3ヵ月が経過した。
たまたま、ハローワークの求人で目に留まり、会社のHPを見てみると「えっ?!まじ?!」っていうぐらい休みが充実していて、
私がこれから求めている「子育て・家族・自分」への時間との両立が可能な職場だと思い、試験を受けた。(半分は信用していないけど)
まあ、引く手数多の福祉業界なので採用はすんなり合格。
通勤距離は1時間30分と長いけど、考え方を変えれば往復3時間は「自分の時間」なのである。
現場の仕事はやはり体力がものをいうけど、幸い周りの職員とのノリや方向性も大きくはズレていないようで、今はやりたいように、言われるがままにやりすごしています。
最低、1年は「暗黙」、3年目で「ベテラン風」というところか。それまでは、無難にそつなくこなそう!
と、思っていた矢先に、「ヤツが久しぶりに顔を出したようだ」
そう!我が体に同居しどいし「うっつん」ことうつ病魔。
はじめは風邪のような症状→発熱→頭痛→やる気の減退。
最近の生活を振り返ると、もちもん毎日がくたくたで、帰りの電車ではいつも寝落ちで携帯電話を落とした音で目覚める毎日。帰ったら帰ったで、子どもの宿題や明日の用意、洗濯物畳み&干しなどの家事。
うちは昔から夫婦での明確な役割分担は決めておらず、それぞれがやれることをやるという分担形式。
それが逆に融通が利かなくなっているのか、パートナーからの何気なく傷つく一言、こどもとは堂々巡りの言い合い(言った、言わないなど)
おそらく、今回はこれがヤツを目覚めさせる原因の一つになったに違いない。
おかげでここ2日は朝から仕事モードにならずズルやすみをしてしまった。
ああ、、、、今月の目標は「ズル休みをしないこと」だったのに。だったまだ、有給なしで休むと減給(約1万円/日)をでかなり痛い。
そもそも、パートナーから「わたしならそんなんで仕事を休まないけどね!」とあっさりいわれたことに怒りよりもむしろ、悲しさを覚えました。この手の病気の快復には「家族」の理解と協力が必須だとおもっていたので。
それがむしろ、パートナーには理解不能の世界であることがわかり、うっつんとの共働生活も3年半が経つが何もわかっていなかった。理解や寄り添いもしてくれていなかったことに減滅というというか、結局理解者は同経験者でないで分かったもらえないんだと思った。
しばらくは、物理的な距離を意識的にとったり、家の外で一人の時間を作れるようにして、リフレイミングをしていきたい。
vol.3 ヤツがやって来た!!
7月の下旬に家族旅行に行ったのだが、その翌日の週末から体が重たかった。
旅でかなりはしゃいだこと、仕事も1か月が経過したこと等からの「疲れ」
だと思っていた。
だるさから発熱に・・・なんと久々の39℃。頭がくらくら・・・
何を食べても味がしない。
これはついに「ヤツが来た!!」と思った。
そう、ヤツの名はコロナ!
考えられる感染経路は旅館の売店におばちゃん。声が風邪ぎみだったし、マスクをせずに咳をしていた。瞬間的に「あっ!」と思ったがこちらもマスクはしていなかったのでどうすることもできず。
さて、それから2日間はベッド生活。
トイレに行きたくなったのでトイレに向かう。用を足したところまでは覚えているのが、その後の記憶がない。気づいたときには、廊下でパンツを半分おろしたまま倒れている父を心配そうに見ている子どもたち。
子どもたちから話を聞くと、「ドン!」と音がしたので、2階に様子を見に行ったらいろんなところが丸出しの状態の父が倒れていたとのこと。
どうやら、ベッドに戻る途中で気を失ったようで前から倒れて頭を打ったようだ。気を失うとは怖いものだ・・・・しかも、〇〇〇が丸出しの状態!ハズい。
その後は、なんとか回復したが、どうやら妻にバトンタッチをしていたようで、
みごとに翌日から選手交代しました。
ワクチンも4回打っていたけど、さすがにもう効力は無いようですね。
vol.2 徒然なるままに・・・
ようやくブログVol.2 (笑)
これまで他のSNSを活用して趣味や仕事のことなどを発信してきましたが、
これからはブログをメインにしながら、場合によっては使い分けをして
いきたいと思う。
では、自分の頭の整理も含めて、「なぜ、このブログを作成したい」と思った
のかを徒然にまとめたい。
■作成にあたり
1.自分の心の整理をし、リフレクション(振り返り)をするために
2.既存のSNSではなく、何もしがらみのない媒体での発信をスタートしたい
3.うつ病と闘っている人が同じ病気で悩みを抱えた人にどのように役に立てるのかを模索するために
4.複業の一つの手段とするために
■ルール
1.実体験をもとに日記を書くように「自由に」考えたことや感じたことを書く
2.読者からの感想や意見は「積極的には求めないし、応じない」
(必要と感じた場合にはこちらから求める場合はあり)
3.「日常生活」をベースに「うつ病」に関することだけでなく、「仕事」
「子育て」「趣味」「おすすめの本」など偏りなく書く
4.更新頻度は決めない。「不定期」をベースにゆっくり、まったりと
vol.1 「プツン!」と音がした。。。
それは突然だった。
頭の右上あたりで、これまで聞いたことのない少し高めで
「プツン!」 と何かが弾ける音がした。
そう!これが私とうつ病との出会いであった。
今思えば、それは突然ではなく、必然だったのだろう。
きっかけは、当時の上司との人間関係がうまくいかず、仕事が思うように片付かない日々を過ごしていた。
その日も、翌日の会議のための資料を作っていた。資料といっても大したものではなく、Excelで作った簡単な一覧表だ。
資料が整ったので、上司に確認してもらうと予想通りの「ダメ出しの嵐」。
しかも、内容というよりも資料の体裁(頭出し、改行、Excelの表の幅など)についてばかりを指摘してくる。
負けず嫌いの私も応戦すべく、「指摘されたところを修正して、再確認してもらう」を3往復、いや、5往復・・・・
いつも通り、定時退社はできず、残業。
その上司もさすがに翌日の資料とあってか、少し残業をしていたが、しびれをきたしたのか、「先に帰りますね。あまり遅くならないようにね!」と言い残して退社。
え?! 誰のせいで遅くなっていると思ってんねん!
指摘事項が内容ならまだしも、体裁って・・・・
おれは、「何のために」「誰のために」 仕事をしているのだろう・・・と頭によぎった23時07分。
その時、頭の右上あたりで少し高めの音がした。